エシャ愛子プロフィール

1973年神奈川県生まれ。弟と妹のいる長女。母も長女、祖母も長女、長女of長女。

小学校4年生ごろから学校へ行きしぶる子で、中学1年生の夏休み明けには完全に行かなくなりました。当時は「不登校」ではなく「登校拒否」と言われ、まだ学校に1人2人いるかいないかという時代でした。

困ったうちの母は、まだ出来始めだったであろう「登校拒否児の親の会」を見つけ参加。帰って来て開口一番「登校拒否の子はIQが高いんだって!」と言い、それから私を学校へ無理やり行かせるようなことは一切しなくなりました。

IQが高いなんてことはどうでも良く「あんたも何か考えているから行かないんだね」と言ってくれたことが、私はとても嬉しかったのです。学校へ行かないのはサボりでも怠けでも甘えでもなくて、何か理由があるんだろう、何か考えがあってのことなんだろうと、私を認めてもらえたような、私の考えを尊重してもらえたような気がしたのです。

中学校時代、学校へ行かずに何をしていたかと言うと、母と一緒に演劇を見に行ったり、買い物をしたり、絵画教室のモデルをしたり、私も油絵を描いたり、テニスを習ったりしていました。
嫌でも真面目に行っていた他の子には怒られそうですが、あの時、母に連れられ変な大人(母の友人たち)をたくさん見てきたことが私の中でとても大切なことだったと今でも思います。変な大人たちは自分のやりたいことを楽しんでいました。「こんな面白い世界があるのよ」「私はこんなことに夢中になっているのよ」と私に教えてくれました。そして誰も学校へ行かない私を責めなかったのです。

登校拒否真っ只中の中学生の私。描いたのは母です。
絵画教室は先生も生徒も全員母世代の女性で
芸術家の先生はもちろん、生徒さんも個性的な面白い人ばかりでした。私はそこに混ざって一緒に絵を描いたり、モデルとして一人500円もらって(生徒は5~6人いたので良いお小遣いになりました)ただ座っていたりしていました。

半年ほど三重県の中学校に転校してみたりもしましたが、結局卒業まで毎日登校するようにはなりませんでした。高校受験もせず、卒業後、叔母の会社にアルバイトとして入りました。

事務所は私と叔母の2人きり。叔母に言われた仕事を何とかこなして帰る時に、私は「それじゃあ…」と言って帰ろうとしました。すぐに叔母に呼び止められ「そういう時は、お先に失礼しますと言って帰るのよ」と言われました。当たり前っちゃー当たり前なんですが、そんなことも知らなかった自分がとても恥ずかしいと思いました。

「私はまだ社会に出るには未熟すぎる」と思い「高校へ行こう」と思いました。「もう少し子どもとして甘えていたい」という気持ちもあったと思います。そこから約半年で中学校3年間分の勉強のおさらいをひとりでして、定時制高校へ入学しました。人って痛い思い、恥ずかしい思いをしてやっと行動を改めることが出来るのだと思います。定時制高校はとっても楽しかったです。パーマもメイクもピアスもOK。生徒の年齢もバラバラなので、子ども扱いされないことが逆に気楽でした。

高校を卒業し、アルバイト先の社員になり、リストラされw、東京のスーパーマーケットに転職し、夫とはそのスーパーの社長秘書さんの紹介で出会いました。出会ったその日にプロポーズされ、ひと月後には両親への挨拶を済ませ、1年後結婚しました。

結婚とともに会社を辞めて専業主婦になりました。専業主婦は私の夢でしたが、社会から切り離された感はもの凄かった。TVでは「専業主婦は寄生虫」なんて言われていました。時間とやる気を持て余して、詳細に家計簿をつけてみたり、節約生活にハマってみたり、新聞に投書したり、謎の焦燥感、罪悪感に駆られていました。でもすぐに妊娠し、母親という役割を得た私はホッとしたのを覚えています。

「役に立たなければここに居てはいけない」という思いが、どこで刷り込まれたのかはわかりません。その思いは今も私の心の奥底に巣くっているのを感じます。こんな風にHPを作って、自分のことを綴っているのも「誰かの役に立ちたい」と思うから。でも今は「誰かの役に立てたら、誰かが喜んでくれたら私も嬉しい」という気持ちに変わっています。

娘が2歳の時、夫の単身赴任が決まりました。そして息子が生まれた後、夫は海外に駐在することに。子どもも小さかったし、日本人のほとんどいないあまり治安の良くない地域だったので私たちは日本に残ることになりました。

2011年3月、東日本大震災が起きました。私たちの住む横浜は震度4強で、地震の被害はそれほどでもありませんでしたが、原発が爆発した影響で、関東も放射能汚染されていました。

毎晩2時3時までパソコンにかじりついて情報を集め、ガイガーカウンターを買いあちこち測定したら、子どもの靴の裏が一番高かったのを見て震えました。年間で計算したら1ミリシーベルトを超えていました。当時私は小学校のPTA本部役員をしていたので、芋ほりを中止してくれとか、プールの掃除を子どもいさせるなとか、校庭の放射線量を測って欲しいとか、学校に色々交渉して校長に嫌われていました。

すべての食べ物を西から取り寄せて、高い浄水器を取り付けて、給食も代替のおかずを持たせたり私に出来ることは全てやっていたつもりでしたが、息子は4月から鼻血を出し続けていました。そして夏休みに三重県の親戚の家に遊びに行くとピタッと鼻血が止まる。横浜に帰るとまた毎日鼻血を出す…空気が汚染されているのなら、ここで子育てしていたらダメだと思いました。そして2012年8月に奈良県へ母子避難しました。

引っ越してきてすぐ、近所に市民放射能測定所が出来ることを知り、私もボランティアスタッフとして参加するようになりました。避難者交流会「ツキイチカフェ」を主催し、4年間でのべ400名の方が遊びに来てくれました。多くの方のお話を聴くうちに、「傾聴」の技術や心理学、カウンセリングの勉強をしたいと思い、産業カウンセラーの資格を取りました。その後2つの民間のカウンセラー養成講座を修了し、以降カウンセリング活動を細々と続けています。

「女性専門」の理由

なぜ女性専門なのか。
男性と女性とでは、欲求やエネルギーの方向が違うからです。
皆さん男性性と女性性の両方を持っていますが
どちらを使ってどちらに働きかけているか、意識しながら話している人は少ないでしょう。
男性的にかかわっても、女性はいまいちピンと来ない。
女性的にかかわっても、男性はいまいち理解できない。
そんなすれ違いが、日常の人間関係でも起きています。
心理カウンセリングをする時も、男性と女性とではアドバイスは違うはずです。
一般論では語れないのです。
だから私は、女性に集中することにしたのです。